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◆日野市主催の「農の学校」は、がんのことを忘れさせてくれる楽しい農業体験だった。

‡2008年4月23日(水)
 午前9時30分に「農の学校」へ行く。初めての出席。すでにみんな来ていて作業の準備をしている。早い。地下足袋にはきかえて農地へ。

 10時から実習開始。トウモロコシと枝豆2種類の種蒔き、里芋と八頭の植え付け。種は小さな穴に3粒をトライアングルに蒔く。3粒を投げ入れたらダメだと言われた。芋は芽を上にして植え付け、土をかぶせる。種芋と種芋の間には肥料を蒔き置く。

 その後、畑の雑草とり。2時間弱で終了。昼食後に講義があると思っていたら、みんな帰る。聞くと、講義は月に一回だけで、今日は実習のみとのこと。
 初めての農の学校は、実習生と同じくらい、講師のおじさんたちがいた。飲み物、着替えが必要。
 夕方、疲れを覚える。

‡4月25日(金)
 やや寝不足(午前2時過ぎに目覚め、読書のため)。
 朝、歯を磨きながらふと思った。
 「そうだ、病気じゃないんだ、もうがんはなくなったんだ」
 この数か月、あまりにもがんと密着していたため、がんが消失したという実感が湧かなかった。今朝、もう病気じゃない、病気じゃない、とようやく思うことができたみたい……。
 そうだよ、もう病人じゃないんだ、普通に生きていいんだよ。抗がん剤の入院もあるので、まだ病人みたいな気分でいたが、がんはなくなったんだ。

 早朝の気功は、えもいわれぬような清々しさに包まれる。木々の葉ずれの音がいい。淡い新芽の緑がいい。ひんやりした空気がいい。ウグイスの鳴き声がいい。小鳥のさえずりがいい。足元のしめった土の感触がいい。落ち葉のクッションがいい。木々の匂いがいい。木立越しに射す朝日の輝きがいい。雨の日は合羽に当たる雨音がいい。

  ◆誓願の言葉
 郭林新気功を始める前に、願い事があればそれを唱える。わたしの願いはただひとつ、がんを治すことだ。短い言葉でも毎日唱えていると、それが当たり前のことになる。
 がんはなくなった。気功の誓願の言葉も変える。
 「郭林新気功で食道がんを治し健康な体になる」→「郭林新気功でがんの再発を防ぎ健康な体になる」

‡4月26日(土)
 夜中の3時ごろ、小用に起きたら、ドアの外でか細いねこの声がする。開けるとねこがうずくまっていた。あの体で階段をのぼってきたのだ。部屋に入れ、ストーブをたいて暖める。
 体をさすってやったが、まったく食べないから、ゴツゴツと骨張ってどうしようもない。こんな体で2階まであがってくるなんて、どうしたのか。小1時間ほど横になっていたが、ヨロヨロと歩きだす。階段のほうへ行くのであわてて抱き上げ、1階のいつもいる場所に連れていった。
 朝、医者に行く。なるべく楽になるようにお願いする。

‡4月28日(月)
 
 東病院で採血・診察。白血球が増えず、再度の入院延期。先週は2800だったのに2700に減っていた。布施先生は横ばいというが、これだけ長く回復しないのは、何かおかしいのでは? あと1週間様子をみることになる。

 夜、動物病院に行き、ねこを引き取る。点滴をしても、もうヨロヨロとしか歩けない。かなり衰弱。ペット葬を調べる。

‡4月30日(水)
 ねこが死んだ……。

 午前中、庭に出してやった。外に出たがっていたのに、まったく動かない。でも日差しを感じてはいたはずだ。とてもいい天気で、春の風の匂いをかいだだろう。

 家に入れると、はっきりと声に出して数回鳴いた。それまでは、呼んでもかすかに口を動かすだけだったのに。
 いつもの場所に寝かせ、お昼に降りてきたら、息をしていないように見えた。あわてて名前を呼んだりさすったりしていたら、大きく息をしはじめた。寝ていただけか。びっくりさせないでくれよなあ。

 退院後に再開したテニスの予約を入れていたので、1時に家を出る。3時に帰ってくると、様子が変だ。今度は本当に息をしていない。
 ……ねこ、最期に立ち会えずゴメンナ。よくがんばった。ご苦労さん。ゆっくり休めばいい。そのうち、俺もそちらに行くから。そのときはたっぷり遊ぼう。俺が行ったときは迎えにきてくれよな。頼むぜ。

 夕方から頭が痛む。頭痛があるうちは、体力が戻っていないと思ったほうがいい。体力をつけようとテニスを再開したが、無理は禁物。

‡5月1日(木)
 
◆名前は「ねこ」という。わたしと同じ時期に同じように体が弱っていった。わたしはかろうじて踏みとどまっているが、そんなわたしのかわりに死んでしまった……ような気がしてならない。
 ねこを火葬にする。ペット葬の「ファミリーペットソサエティー」に依頼。2万円也。セレモニーカーで迎えにきてくれた。東京ではそれ一台だそうだ。火葬に引き取っていく前に、次男が来る。家にいるときは、ねこを可愛がっていたからな。

 2時間後、骨になって帰ってきた。
 遺骨を安置し、線香を焚く。写真をプリントし、飾る。もっといろいろな表情をとっておけばよかった。パソコンに保存した写真を見ていると、ひょっこり部屋に入ってきそうな気がする。

‡5月3日(土)
 食事による養生で困っているのは、甘いものが欲しくなること。その気持ちを抑えるのに苦労し、禁を破って食べはじめると、止まらない。精神的な飢餓?

 本には、食事に満足しないのが原因のひとつ、とある。確かに玄米菜食では、お腹がいっぱいになっても、何かずしんとくる満足感が足りない。それが、もっと何かを食べたい→食事ではない何か→甘いもの、となるようだ。

 通常の玄米菜食で満足する献立、これを開発する必要がある。あと、魚を解禁にすることも検討。今は肉・魚はいっさい食べていない。魚が献立に加われば、満足感は大きいような気がする。

‡5月7日(水)
  ◆少し迷ったが、今回も個室を選んだ。我慢や遠慮をしなくてもすむ、という点はやはりありがたい。苦しくなれば、うめいたりわめいたり、自由にできるのがいい
 今日は、3クール目の抗がん剤入院。白血球の数値が上がらず、予定より1か月遅れの入院だ。国立がんセンター東病院に11時着。病室は1回目と同じ816号室だった。

 放射線+抗がん剤という治療法で、わたしの食道がんは消失した。放射線単独よりも抗がん剤を併用したほうが効果が高い、というエビデンスどおりの結果が得られたと思う。

・放射線は、2月14日〜3月27日、計28回(1回1・8グレイ照射)、総線量50・4グレイ。
・抗がん剤は、2月14日〜17日、3月18日〜21日の2回、いずれもシスプラチン1650mg×4日+5-Fu120mg×1回。

 この放射線化学療法は、国立がんセンター東病院が、エビデンスに則って行う標準治療だ。おかげでわたしのがんはなくなった。感謝してもしきれない。

 しかし、がんという病気の性質上、まだ完治したわけではない。いまだわたしは病人なのだ。がんがなくなったという嬉しさのあまり、そこのところを勘違いしやすい。
 わたしも、治った、治った、もう病気じゃない、と喜びうかれた。が、冷静になれば、今は寛解の状態であり、治癒はまだまだ先のことなのに気づく。そこは肝に銘じておく必要がある。

 そのうえで、どうしようか迷いに迷ったのが、あと2回残っている抗がん剤の投与だ。
 抗がん剤投与4回――これが標準治療。病院としては、2回終わったところでがんが消失したから、残りの2回をやめる、ということはしない。残っているかもしれない微小ながんをたたく。それが目的だから。

 この説明は納得がいく。だったら、残り2回、受けるべきだろう。

  ◆(抗がん剤は効かないと)断言する医学者
 著作の『患者よ、がんと闘うな』で、一躍有名になった近藤誠医師がそうだ。がんになる前のわたしは、近藤医師の主張に大賛成だった。しかし、がん患者になってみると、その論旨には、けっこうつらいものがあることに気づく。
 主張が間違っているわけでは決してない。それどころか、まさに真実をついていると思う。そうであるだけに、がんになった身としては、絶望感に打ちのめされるのだ。
 健康な人とがん患者、という立場の違いが、まったく異なる読後感をもたらすのを初めて体験した。

 だが、一方で、抗がん剤は(一部のがんを除き)効果がない、と断言する医学者もいる。極論すれば、命を縮めるだけだとまで言う。その論拠とするデータを見れば、これまた納得できる。

 いったい、どちらを信用すればいいのか。

 抗がん剤に効果ありやなしや。いくら考えても結論は出ない。今、はっきり言えることは、
 1・放射線治療に抗がん剤を併用すると治療効果が高まる
 2・抗がん剤だけでは食道がんを完治させることはできない
 ということだけだ。

 白血球の減少で延び延びになっているが、あまり間をあけるわけにはいかない。あけすぎると、これまでの放射線+抗がん剤の攻撃で、息も絶え絶えになっていたがん細胞が復活してしまう。復活する前に、3回目、4回目の攻撃を加え、完全に死滅させる。

 

 もちろん、抗がん剤の矛先は正常細胞にも向けられるから、つらい思いをしてきた。だが、正常細胞も復活している。ヨタヨタではあるが、テニスをする体力・気力が戻ってきた。
 がん細胞の復活は、正常細胞に比べて遅いという。とすれば、体力が戻り、がんはまだ弱っている今がチャンス。やるなら今だな。

 実はこれには、だれにも答えられない問題がある。それは、今現在、わたしの体のどこかに、がん細胞があるのかどうか、という疑問だ。
 検査では、がんは消えてなくなった。だが、検査にひっかからない小さながんが、ひっそりと生きている可能性はある。
 生き延びたがんがあれば、抗がん剤治療の意味があるし、なければ肉体的ダメージを受けるだけだ。
 どちらが正しいのか。これは、神のみぞ知る――事柄だろうから、検討材料から除外するしかない。

 ということで、さて、どうしよう……。

 う〜ん、3クール目をやってみるか。体力的にはもちそうだ。もしだめだったら、そこで中止する。体力との相談ということで。
 なんとも歯切れの悪い結論を出して、入院してきた。それが今日までの経緯だ。

 散歩に行こうとしたら、布施先生と廊下で会う。白血球は3600で問題なく、抗がん剤の治療は予定どおりとのこと。

 ケア病棟の庭を散歩。藤棚の藤が満開。きれいだが、ハチが集まってちょっと危険かも。でかいハチがいた。池の鯉は元気。

◆国立がんセンター東病院のケア病棟と庭の花壇。ここには春の風景が広がっていた。

 
 散歩後、汗をかいたのでシャワー。さっぱりしたところで、点滴用の針を手首の甲側に刺される。過去2回の点滴で血管も弱くなっているだろうから、場所を変えるほうがいいみたいだ。

 薬剤師のYさんよりいろいろと説明を受ける。
・味覚異常はシスプラチンにありがちな副作用。
・後遺症としては、抹消神経の不調、耳鳴り・難聴。徴候を感じたらすぐに報告すること。
・腎臓の異常は「クレアチニン」の数値で確認できる。
・白血球のNEUTRO(好中球)の値が15以下だと、抗がん剤は無理。それがひとつの判断基準になる。今回は22・2なので問題なし。

 夜、点滴交換のため10時まで眠れず。夜中、大きな地震。

‡5月8日(木)
 
◆体重減少に伴う処置
 前にも書いたとおり、抗がん剤の投与量は体重に比例する。1クール目は59・8キロの基準体重だったが、今回は54・1キロと5・7キロ減。
 体重が減った分、抗がん剤も減らしてほしいと、事前に申し入れをしておいた。それで量が少なくなったのだ。
 実は第2クールのときも体重は3・6キロ減だったのだが、つい忘れていて、あとで気がついたら、1回目と同じ量を投与されていた。
 投与のたびごとに、基準体重にもとづいた量を計算しなおす。どうやら、そのあたりがシステム化されていないようだ。
 やはり、治療の主体は自分、医者ではない、という柳原師匠の教えは正しかった。それを痛感した出来事だった。人まかせはダメ!




◆点滴スタンドにぶら下がる抗がん剤。この光景も見あきた。
 抗がん剤開始。シスプラチンは前回より10mg減の110mg、5-FUは100mg減の1550mg。体重減少に伴う処置

 抗がん剤初日。まだ影響はない。前回までは放射線照射+抗がん剤だったが、今回は抗がん剤単独。副作用は少ないような気がするのだがそうだといいな。前回に比べて小水が少ない。シスプラチンを排出するには、もっともっとおしっこを。
 夕食後に味噌煎餅。味噌味というより普通の甘い煎餅だった。

‡5月9日(金)
 抗がん剤2日目。未明から不快な気分。いよいよきたか。お腹まわりが気持ち悪い。頭が重く、食欲なし。シソコンブやワサビミソを買っておいたが、ご飯を食べる気がしないのだから、使わない。
 一日やる気なし。吐き気止めの点滴以後は持ち直す。血圧急上昇。夜、平常に戻る。

‡5月10日(土)
 抗がん剤3日目。体調は徐々に戻る。食事はぎりぎりの感がある。全面的に食べたいわけじゃないが、食べようと思えば食べられる。が、ちょっと油断すると吐きそうになる。まさに綱渡り。

 夕食後は調子いい。スイカが効いているのかな。見舞いにきたカミさんが買ってきてくれた。
 今日はぎりぎり普通の生活が送れた。抗がん剤3日目にしては上出来。放射線がないだけ副作用も軽いのだろう。

 資産運用の本を読む。がんの治療に専念するには、お金の問題を避けて通ることはできない。
 これからの10年、20年は、少子高齢化・人口減・成熟経済といった要素が、これまでの常識を覆す。どうすればいいのかを勉強。

 やるだけのことはやっておきたい。そうすればダメでも納得できる。だが、たとえば重粒子線治療などの先端医療は保険がきかない。一回の治療で300万もかかる。となれば、まさに命を買えるのはお金だけ。

 『お金は銀行に預けるな―金融リテラシーの基本と実践』(勝間和代/光文社新書)に、こんな一節がある。

*資本主義というものは、厳しいいい方をすれば「賢くない人から賢い人へお金が流れるしくみ」だと思っています。

 ものすごいことを言う人だ。よく言えると感心する。わたしはどうも賢くない人の部類のようだ。

‡5月11日(日)
 抗がん剤4日目。昨日に引き続き、体調まあまあ。ただし、食べたくない。ものを食べると、まっさかさまに谷底へ落ちるという分水嶺にいるのは確か。
 筋トレをまじめにやっている。今回はそれぐらいの余力がある。
 夜中に目が覚め、寝つかれず、レンドルミン半錠。

‡5月12日(月)
 

 抗がん剤投与が終わり、調子はまあまあだが、かろうじて踏みとどまっている感じ。一歩間違うと奈落の底へ、というあやうさにつきまとわれている。
 午後から夜にかけ、だんだん調子が悪くなる。ひどくはないがおっくう。ベッドにもぐりこんでウトウトしている時間が長い。悪天候で寒い。5月の台風もきているそうだ。筋トレお休み。

 聞いてみたいことを申し入れる。がん再発予防の食事法とBPM剤について。
 午後、布施先生以下回診。食事指導といっても、胃の切除をした人のもので、食事でのがん再発予防法はない。勧められるものもない。むしろ害があったり、効くなどというものは詐欺だったりする――そんな見解だった。

 夜勤の看護師さんが挨拶。レンドルミンの件で話があり、義務違反とわかる。持ち込んだ薬はすべて預かり(申告)となり、勝手に飲むことはできない。昨夜、飲んだレンドルミンは、残っていたものを持ってきており、本来なら申告してから飲むべきものだった。

 深夜1時半、強い腹痛。排便したらおさまった。

‡5月13日(火)
 体調は持ち直す。が、不安を残しつつ、だ。
 昨日の質問に対し、管理栄養士のSさん来室。レクチャー中、院長回診で中断。ついでだから、院長にも治療後5年間の過ごし方の情報がほしい旨、要望する。

 いい薬が開発されつつあると言っていたが、どうも信用できない。今、使っているシスプラチンは1965年(43年前)、5-FUは1956年(52年前)に開発された薬だ。それを相変わらず使っているということは、それ以上の薬効のある抗がん剤が、いまだ開発されていないということだ(食道がんの場合)。

 夕方、薬剤師のYさんがくる。BPM剤(Biological Response Modifiers)のことを質問しておいたのだが、結論は、エビデンスがないのでお勧めできない、とのこと。結局、みのもんた的誇大情報のひとつ、というとらえ方のようだ。

 ま、エビデンスありきという方針は正しい。
 「この病院はエビデンスのない治療はしません」「だから安心」というのはよくわかる。いい加減な治療がまかり通っている現状を知っているだけに、その意味では確かに安心できる。
 が、標準治療が終わって寛解になったわたしに、5年生存を可能にする、つまりは再発防止のための治療法は、何ひとつないと言う。

 再発を防がなければ、がんは治ったとはいえない。治っていない患者に、もう治療法はありません、というのは、医療者としては無責任ではないのか。

 あと5年をおびえながら生きねばならない。そんな患者にとって、エビデンスがないからといって、何もしないわけにはいかないのだ。そこんところをよろしくと言っておいた。

‡5月14日(水)
 

 朝からの雨の中を退院。
 帰宅後、夕方まで寝る。夕食は玄米お粥と野菜いためをつくる。疲れる。できうるならば、ヨロヨロ帰ってきたらお風呂が湧いていて、お疲れさん、さあさ、お風呂に入って。お布団もひいてあるから休んで……なんてことがあってもいいじゃないか。命を的に戦ってきたんだから。
 働いているカミさんに、そんな余裕は……ないか。

‡5月17日(土)
 退院3日目。テニスをやってみた。絶不調。体(も心も)動かない。失敗ばかり。

 
◆左腕の赤黒い筋。点滴針が刺さっていた部分は赤く腫れている。


◆2週間後の6月1日の様子。赤みが減り黒い筋になっている。
 退院の日の朝に気づいた左腕の赤黒い筋が、くっきりしてきた。黒ずんだ血管が、手の甲から肘の近くまではっている。不気味だ。点滴針が刺さっていたあたりは、赤くなってやや腫れている。押すと痛い。

 推察するに、抗がん剤終了時の処置ミス。終了後、点滴の針を右腕に刺し変えて、事後点滴の水分を流すようにした。そのため、終了した抗がん剤の点滴部位には、別に水を流す必要があったはずだ。
 それをやった記憶がない。したがって、抗がん剤が停滞し(そのうち血流で流れていくが)、血管が障害されてしまった――と思われる。なにしろ抗がん剤は「細胞毒」なのだから。

 前回だったか、新人看護師の I さんが、同じ場面で、小さな点滴パックを使ってその処理をした。今思えば、ベテランも忘れることなのに、エライ! それが記憶にあったから、血管障害の推察ができたのだが、実際の治療場面で気づかなかったのは、要反省だなあ。あなたまかせで、ボーッとしているからだ。
 主治医は自分――と再確認したばかりなのに。イカン、イカン。

 夕食は作家の浅田次郎氏推奨の田村でうなぎ。退院祝いの口実で禁断の魚を食す。ウマイ。カミさんは浅田氏推奨のかき揚げ丼。はしっこを食べさせてもらったが、海老のぷりぷりの触感といい、しつこい甘味がないタレといい、推奨どおり。久しぶりに食事を堪能した。

‡5月19日(月)
 

 5時半起床。日中、軽い立ちくらみ数回。赤血球が減っているのか。

 午前中、F子先生のボディ・ライトニングに行く。遅ればせながら、4月の検査でがんが消失したことを報告。これからの5年をクリアーすることが今後の課題だと話す。
 西洋医学の先生方は、方法はない、と言う。でも、そうですか、と引き下がるわけにはいかないので、何か方法はないか、それをどうしてもさがしたい――という話をした。

 しかし、F子先生は別の考え方を示す。

 がんの実態は百人百様だから、万人に聞く療法はない。それを求めると泥沼にはまるだけ。西洋医学でやるだけの手は打った現在、新たな治療法を模索するのではなく、今、考えるべきは生き方だ。

 なぜ、がんという病気がもたらされたのか、そこを深く考える必要がある。生き方の問題。
 誤った生き方ががんを招く。ならば正しい生き方をすれば、がんは治るのでは。

 正しい生き方とは何か。肝心なのは「腑に落ちる」ということ。

 あちこちに転移した肺がんの女性がいる。彼女は恨むことで辛さから逃れようとした。しかし、あるとき、恨んで生きていてもしかたがない、と気づいた。そんな生き方ががんを招いたんだ、と腑に落ちたそうだ。以来、彼女のがんはそれほど進行しなくなっている。

 F子先生は、おおむねそんな話をしてくれた。
 何で腑に落ちるか、それは人それぞれ。しかし、がんを直すポイントがそれであることは間違いないような気がした。いい話を聞けた。

 終わってマッサージに直行。

 遅い昼飯を食べ、年金受給の繰り上げ試算。
 これから5年後まで、がんとの闘いに専念する。その間、仕事はしない。がんとの闘いを仕事にする――。
 そう決めたが、問題はお金だ。カミさんの収入だけに頼るのはつらい。わたしが収入を得るとすれば、65歳から支給される年金を、60歳の今からもらう繰り上げ受給しかない。

 繰り上げて受給すると、年金額は減額される。それでも、もらったほうが得になるのは、早く死んでしまう場合だ。
 なんとも気が滅入ることだが、5年生存率30パーセントのわたしの場合、65歳までに死ぬ確率は70パーセントもある。つまり、年金がもらえる年齢に達したときには、すでに受給資格を失っている(あまり口にしたくないが、死んでいる)と考えるのが、数字が示す冷徹な現実だ。

 もちろん、5年間を闘いぬいて、絶対に生き延びる。その決意は揺るがない。だが、数字は数字として認めなければ。
 で、計算してみた。結果は、77歳でプラスマイナス0。77前に死ぬようだと先にもらっておいたほうが得、それ以上生きるなら損。
 さて、繰り上げ受給を申請するかどうか……。わたしの寿命はいつ?

‡5月20日(火)
 
 6時起床。大雨。
 口の中に違和感あり。頬が痛む。本格的な口内炎にならないように。
 午前中テニス。午後からかなりひどい頭痛。寝るまで続く。無理をしていることは間違いない。テニスがいけない?

 風呂に入ったときに気づいた。左前腕の抗がん剤痕が、上腕部まで及んでいる。うっすらと血管の筋が現れてきたのだ。どこまでやられているのか?
 少し不安になる。このまま金曜日の診察まで放っておいていいのだろうか……。押すと痛みがあるが、それほどひどい痛みじゃない。もう少し様子をみるか。

‡5月23日(金)
 午後、国立がんセンター東病院で採決と診察。白血球は4600まで戻っていた。抗がん剤を投与すると、1〜2週間後ぐらいに、白血球が最も減少する時期がくる。今がその時期なので心配していたのだが、よかった、よかった。安心する。

 血管の黒ずみは問題なしとの診断。点滴による抗がん剤投与ではままあること。時間がたてばなくなりますよ、と布施先生は言う。これまたひと安心だ。

‡5月26日(月)
 高額医療の払い戻し請求を行う。そこで疑問が生じた。
・ひと月単位であることの矛盾
・ひとつの診療科単位であることの矛盾
 わたしの場合、2月と3月は放射線治療が月をまたいで行われた。合計した金額は払い戻しの対象になる額だ。しかし、2月分、3月分に分けると、払い戻しの対象金額に届かない。
 もし、2月、あるいは3月の月内に集中して治療を受けていれば、払い戻しを受けられる。これは、おかしくないか?

 もうひとつ、わたしは国立がんセンター東病院と駒込病院で、1月に集中して各種の検査を受けた。合計すると、これまた払い戻しの対象になる額。しかし、病院(診療科)単位の月内金額なので、これまた払い戻しの対象金額に届かない。

 高額医療の払い戻しという法律の精神は、国民(個人)が高い医療費で苦しまないよう、社会(みんな)で助け合いましょう――というものだと思う。とするなら、たとえ月をまたいだとしても、継続する治療にかかったお金は、払い戻しの対象にするなど、考えてもいいのではないか。
 なぜ、そういう法律が生まれたのか――という立法の精神を忘れると、ちぐはぐな運用がまかりとおる。高額医療の払い戻しという制度も、その陥穽におちいっているような気がしてならない。

‡5月30日(金)
 

 Hクリニックで採血。白血球1900。前回23日の4600から大幅に低下。1週間で2700も……ああ……。3クール目の抗がん剤が終わって19日もたっているのに、なぜこんなに減ってしまうのか? 何か対策を考えないといけない。感染症にも用心すること。

‡6月4日(水)
 午後、Oクリニックで前立腺の診察。軽度の肥大とのこと。年相応というべきか、あちこちに異常が出てくる。軽度とはいえ、わたしも立派な前立腺肥大患者になってしまった。

 排尿障害(緊張をやわらげる)の薬・フリバス錠25mgを処方される。この薬で夜中の頻尿が直接的に治るわけではないが、残尿や勢いのなさが改善されるかどうか、様子を観察することになる。
 わたしとしては、小用で、夜中に3度、4度と起きるのがいちばんつらいのだが、その改善は望み薄のようだ。

‡6月6日(金)
 今日から4日間、房総でのんびりと釣りを楽しむ予定。最後の抗がん剤に備え、心身のリフレッシュというところだ。
 宿はウィークリーマンションタイプ。最初は3階だったが、海も見えない貧相な部屋なので、空いている部屋があれば替えてほしいと交渉。8階にチェンジ。南東の角部屋で、ベランダから海が見える。東、南、西と3方向が見えるので、眺望はいい。12階の展望風呂も絶景。ちょうど夕陽が沈むところで、眺めは最高だった。

‡6月11日(水)
 今日は東病院で採血・診察。11時の予定が1時間も遅れ、いい加減イライラする。白血球は3200で問題なし。静養の成果あり、だ。明日の入院が決まる。持参した弁当を病院の食堂で食べて帰宅。

‡6月12日(木)
 5時15分起床。体調は普通。口角におでき。少し痛い。
 11時前に国立がんセンター東病院着。入院。担当看護師に静脈の炎症の件を話し、点滴の注意厳守を申し入れる。

 
◆最後の治療になる4クール目の点滴針は右腕に刺した。

 点滴用の針を刺すために来室したF先生の話では、静脈炎は5-FUの副作用で、出る人には出るとのこと。抗がん剤が常に流れる場所であり、影響が現れやすいそうだ。
 わたしが推察した滞留だけが原因というわけでもなさそう。点滴の間じゅうさらされ続けるわけで、滞留しなくても影響は甚大。滞留するともっと障害される……だろう。

 体の痛感は抹消神経障害のようだ。手足の先だけでなく、体の表面も抹消になるとのこと。それがひどくなると抗がん剤治療も見合わせるのだが、レベル1ぐらいだと思われるので、予定どおりの治療を行うとのこと。

 薬剤師のYさん来室。静脈炎を見せて、薬剤の適切な時間管理をお願いする。

 今日は、事前点滴だけで気分が悪い。下腹部に不快感。気力がなくなる。目をつぶるとうつらうつらの状態。そんな有様で午後が過ぎていく。何をする気もなく、夜11時までテレビをだらだらとみる。明日のためにそろそろ寝なくちゃ。

‡6月13日(金)
 
 抗がん剤投与1日目。
 目覚めは5時。6時に起床。起きたとたん、体がこわばっているのに気づく。点滴が気になって、体が緊張したせいか。
 朝から疲れている。腰が重だるい。トイレに起きる回数が多く、眠りが中断されるからだろう。テニスはちょっと無理という体の状態だ。

 朝風呂に入ってさっぱりしたところで、10時過ぎから抗がん剤の点滴開始。基準体重は前回とほぼ同じなので、投与量は変わらず。スケジュールもこれまでと同じ。慣れたもので、緊張感はまったくない。いつ気分が悪くなるか、気になるのはそれだけだ。

 今のところ気分は普通。痛感もほとんどなくなった。風呂でリラックスしたせいか、体の調子も朝よりずいぶんよくなった。

 その後も調子はいい。夕食は食べたくなかったが、あとは問題なし。夜、なかなか眠くならない。レンドルミンを一錠もらう。

‡6月14日(土)
 抗がん剤投与2日目。
 6時30分起床。昨夜、眠ったのが2時過ぎだと思うので寝不足。調子が悪い。食事を食べる気がしない。少しずつ影響が現れている。腹部の不快感。

 お昼、カミさんたちが見舞い。4時までとりとめもなく過ごす。点滴の遅れ2時間。言ってもだめだ。昨日より気力が低下。

 夜、しゃっくりが激しくなる。寝る時間になってもとまらない。これも副作用のひとつ。効き目があるという冷水を飲んだらようやくとまった。これでダメなら薬をもらうところだった。不安になる。副作用が強くなっているのでは?
 眠れない。昨夜に続きレンドルミン一錠。

‡6月15日(日)
 抗がん剤投与3日目。
 6時30分起床。腹部の不快感は変わらず。洗顔、体重測定、検温、簡易気功、休息。8時から朝食。まだ食べられる。

 午後、9階の食堂で3時のお茶をした。気分転換をはかるにはいい方法だ。考えをまとめるのにもいい。

 昼食、夕食と進むにつれ、ムカッとくる。ついに夕食は全滅。無理に食べると吐きそう。
 食べなくても……と思ったが、以前、布施先生が話していたカップヌードルを試してみた。これはいける。何年ぶりかのカップヌードルだが、お腹も少し落ち着いた。ほかにアイス半分、プルーン3個で夕食終了。

 昨日、一昨日と寝るのが11時を過ぎていた。今日は早く寝ること。

‡6月16日(月)
 
 抗がん剤投与4日目。最終日だ。
 5時30分起床。少しずつ調子が悪くなってくる。病院食は食べる気がしない。3時にお茶。夕食カップヌードルでなんとか落ち着く。

‡6月17日(火)
 6時起床。抗がん剤は終わったのに、終日不快。横になると少しは楽になる。しばらく寝ていよう。
 吐き気を薬でとめているための不快感なのだろう。お腹まわりの違和感。お腹がすいて何かを食べたい――といったような激しい欲求がない。どよんとしている。

 こんな状態が続くと、心もどよんと落ち込んでくる。希望、未来、明るさ、ときめき、楽しさなどの感覚が消えていく。死ぬのはいやだが、こんな感じで生きていても……な。
 肉体と心は連動している。肉体が苦しいときでも、心を明快に保つ方法をいろいろ学んでいるはずなのに、できない。肉体が沈めば心も沈む。それが今のわたしの状況だ。

 いかん、いつの間にかウツラウツラしている。ここで寝てしまったら、夜眠れなくなる。のそのそ起きだして少し歩いてみる。気分はいっこうに晴れない。

‡6月18日(水)
 6時起床。終日不快。胃腸がもやもや。吐き気ではないが、とにかく気持ち悪い。便が出ない。腸が動いている気配がない。あまり食べていないのでたまってはいないと思うが、便秘も3日目になると心配。

 体の不調が気力の減退につながる。憂鬱。動こうと思えば動けるだけの体力はあるのだが、やる気まったくなし。やりすごすしかない。
 悪いことに今日の採血で白血球が1700までダウン。

‡6月19日(水)
 ようやく退院。
 管理栄養士のSさんが挨拶にくる。食事のまずさを訴えておいた。
 高幡不動からタクシー。13時前に帰宅。入院前に種を蒔いておいた庭の芝の芽が、うっすらと出ている。寝る気にもなれないので、雑草を抜いて庭仕事で気分転換。地下足袋をはくとそれなりの気分になる。

 2月の治療開始から6月まで、5か月間――これで食道がんの標準治療はすべて終了。体力は完全に底をついたが、なんとか耐えきることができた。放射線と抗がん剤の副作用に耐えるだけの体力があったことに、ただただ感謝するのみ。

 あとは5年生存を待つだけになった。ただし、5年が過ぎるのを漫然と待つわけにはいかない。再発という、がん治療最大の難関が控えているからだ。
 この点に関し、医者は、やるべきことは何もない、と言う。つまり、再発を防止するためのエビデンスのある治療法はない、ということだ。

 今日までは、目の前のがんを治すことだけで精一杯だった。
 しかし、冷静に考えてみれば、初発のがん治療(消失)の成功確率は70パーセント。今になれば、成功しても当たり前、の感がある。
 それに対し、再発を防いでがんを完治させる成功確率は、30パーセントと告げられている。これは厳しい数値だ。しかも、失敗すれば、即、死が待ちかまえている。

 今日からは、現代医療という後ろ盾もなく、この30パーセントという数字と格闘しなければならない。さてさて……。


◆国立がんセンター東病院ともお別れだ。これからは、年に4回の定期検査で訪れるだけにしたい。

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