◆サン・ジルダール修道院===============
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▲どこまで行っても緑の畑が続く。
▲畑の向こうに現れた原発。
▲修道院のグロットで祈りをささげる一行。
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早朝5時30分、モーニングコールが鳴る。今日は、ベルナデッタが眠るヌヴェールの修道院にバス巡礼。ルルドからパリに移動したのが昨日。そして今朝は、パリから貸し切りバス3時間15分の移動だ。
6時からホテルの朝食バイキング。7時35分ホテル出発。30分も走らないうちに窓の外は広大な畑になる。走って走っても畑地が広がりつづける。食料自給率が100パーセントを超える農業大国だけのことはある。
9時52分、稼働している原発の横を通りすぎる。フランスは、日本よりはるかに原発依存度が高い国でもある。
10時44分、サン・ジルダール修道院に到着。入り口はバス一台がやっと通れるぐらいの細い道で、小さな遮断機のバーがあり、そこを過ぎるとすぐにバスが止まった。
バスを降りて木立と建物の間を抜けると、もう修道院の敷地だった。いかめしい門も高い塀もない。あっけないぐらい簡単に中に入れる。
入ってすぐの左手に、ルルドそっくりにつくられた「修道院のグロット」があった。ツアーの一同はその前で祈りをささげる。
グロットの反対側は中庭のようになっており、真ん中あたりにベルナデッタの像が建っている。そのまわりには、色とりどりの花が植えられていた。
中庭をコの字に囲んで建物が建っている。右端の白い壁の建物が聖堂だという。ベルナデッタの棺が安置されている。午後からここでミサを行う予定だと聞かされた。
▲ベルナデッタの棺が安置されている聖堂。左端にベルナデッタの像が写っている。
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聖堂には入らず、修道院の正面入り口に向かう。中庭から先に進み、右に回りこんで生垣に沿って少し歩くと、正面入り口に出る。ちょっとした広場になっており、葉を茂らせた木もあり、庭のようでもある。
そこから見ると、3階建てで横に長く伸びた修道院の建物は、わたしのイメージどおりだ。これぞ修道院。2階と3階は修道女の宿舎かな。大きい窓がずらりと並び、部屋はいかにも明るそうだ。
▲サン・ジルダール修道院の正面入り口。わたしのイメージどおりの修道院だった。 |
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▲ベルナデッタもくぐった修道院の門。
▲修道院の庭。 |
修道院の正面から振り返ると、門がある。灰色の門扉で閉ざされているのが残念だが、ベルナデッタはこの門をくぐって修道院に到着したという。1866年7月7日のことだ。
◆水の聖母=====================
正面入り口から左に進むと広い庭に出る。修道院の建物とは低い塀で区分けされているので、修道院の外に出たような感覚になる。修道院を出て野原にやってきた、そんな感じだ。
緑に囲まれた小道を歩いていくと、庭の西のはずれに出る。そこに「水の聖母」がたたずんでいた。両手を広げ、やや左に傾けた顔は、まぶたを閉じてまことにおだやかだ。かすかに微笑んでいるようにも見える。
修道院にやってきたベルナデッタは、この聖母はルルドに出現した聖母にいちばんよく似ている、と語っていたという。そしていつもこの聖母像の前で祈りをささげていた。
▲サン・ジルダール修道院の水の聖母。ルルドに出現した聖母にいちばんよく似ている――ベルナデッタはそう言っていたそうだ。 |
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▲水の聖母。 |
なぜ、水という名前がついているのか。神父さまの解説によれば、かつてこの地方で日照りが続いたとき、聖母像に祈ったところ雨が降った。そこから水の聖母という異名がついた、ということだ。
◆聖ヨセフ小聖堂===================
庭をぐるりと一周して元に戻る手前に小さな建物がある。アーチ形の入り口、とがった屋根に十字架、そして建物の前には並木道が天高く緑の葉を茂らせている。
▲聖ヨセフ小聖堂と並木道。
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▲聖ヨセフ小聖堂。ベルナデッタは、こ
の聖堂の地下墓地に安置されていた。
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▲▼小聖堂の内部。
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開け放たれたドアを入ると正面に祭壇があり、上方にはマリアを描いたステンドグラスが白い輝きを放っている。その左と右にも同じ大きさのステンドグラス。あとは壁に沿って木のベンチが置いてあるだけの質素なしつらえだ。
ツアーの一行29名が入ると、それだけでいっぱいになりそうな小さな建物。これが、ベルナデッタの遺体が安置されていた聖ヨセフ小聖堂だ。
1879年4月16日に亡くなったベルナデッタは、ヌヴェール市当局の許可を得て、この小聖堂の地下墓地に安置された。だが、そこで眠りつづけたわけではない。安置されてから3回も掘りだされているのだ。なぜ、そんなことが行われたのか?
それについては、修道院の売店で売っていた『聖ベルナデッタ―その体について―』(アンドレ・ラヴィエ著)という冊子に詳しく書かれていた。それによると――。
◆遺体鑑定=====================
発端は「列福」という行為にあった。
列福とは「キリスト教、カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人(Saint)に次ぐ福者(Beato)の地位に上げられること」(ウィキペディアの解説)をいう。
別の解説では「カトリック教会で、信者が死後に教皇に認められて福者の地位に並ぶこと」(デジタル大辞泉)とあった。
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▲修道院時代のベルナデッタ。
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キリスト教の信者でもないわたしには、その価値はよくわからないが、福者になることは大いなる名誉だろうとは想像できる。今回の旅でもイタリアに向かう一行は「高山右近・列福を祈る巡礼団」と 銘打っていた。昔も今も、列福の運動はさかんに行われているようだ。
ベルナデッタの場合、列福の手続きのひとつとして「民法と教会法にもとづいて、遺体がベルナデッタ自身のものであることと、遺体の状態を確認するため」に小聖堂の地下墓地から掘りだされた。1909年9月22日のことだというから、死後30年がたっている。
そのときの様子は、公式記録文書として残されている。死んでから30年後の「遺体鑑定」は、非常に興味深い事実を公開していた。
「……ヌヴェールの司教、市長、副市長、数名の教会参事会員、およびわたしたちの面前で、棺が開かれた。――いかなる臭いもしなかった。――遺体は修道服にまとわれており、その修道服は湿気を含んでいた。――顔と両手と手首だけが露出していた。
頭は左の方に傾いていた。顔は白く、つやがなかった。皮膚は筋肉に、筋肉は骨にしっかりとついていた。――くぼんだまぶたが、目をおおっていた。――アーチ型の眉毛はしっかりと皮膚についていた。――右上まぶたの睫毛も同様であった。――鼻は羊皮紙のようにかさかさになり、ほっそりととがっていた。――わずかに開いた口は、今もしっかりとある歯を見せていた。――両手は胸元で組み合わされ、爪とともに完全に保存されており、さびたロザリオをまだ握っていた。――腕の静脈が目立って見えた」(外科医ダヴィドと医師ジュルダンの報告書)
つまり、これを読む限りでは、死後30年たった遺体が、今、死んだかのような状態で、鑑定人たちの眼前に現れたということだ。これは奇跡なのだろうか?
鑑定が終わった遺体は「鉛とオーク材で作られた二重の棺」に納められ、「二重の棺は、閉じてハンダ付けにされ、ネジで止め、七箇所に封印がなされた」あとに地下墓地に運ばれて安置された。
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▲棺におさめられたときのベルナデッタ。(『聖ベルナデッタ―その体について―』より複写)
▲1919年に行われた2回目の鑑定のときの警察署長の証明書。(『聖ベルナデッタ―その体について―』より複写)
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しかし、それで安らかな眠りが訪れたわけではない。遺体はさらに掘りだされる。2回目の遺体鑑定は1919年4月3日――死後40年目に行われた。二人の医師が鑑定を行い、「それぞれ別の部屋で、互いに相談し合うことなく、報告書を作成した」が、その内容はまったく一致したという。
「棺が開かれたとき、遺体は、いかなる損傷もこうむらず、無臭で、完璧な状態であるように思われる。遺体は、ほとんどミイラ化していて、所々かびにおおわれ、カルシウム塩と思われるかなりの塩の層が見られる。骨格は完璧な状態にあり、何の問題もなく遺体をテーブルの上に運ぶことができた。皮膚は、部分的に失われていたが、大部分はそのまま残っている。静脈のいくつかは、今もなお、くっきりとうき出して見える」(コント博士の報告書)
死後40年もたてば、普通は骨だけになってしまうのでは? こうした事実は、3回目――最後となった遺体鑑定でも見られる。それが行われたのは1925年4月18日のことだったと冊子にある。死後46年目。そして結果は――。
「この調査の結果、次のような結論に達した。尊者ベルナデッタの遺体は全然損なわれてはおらず、骨格は完全な状態にあり、筋肉は委縮しているとはいえ、良好な状態で保存されていた。ただ皮膚だけがかさかさになっており、棺の中の湿気の影響を受けたと思われる。皮膚は灰色がかっており、所々にかびがはえ、かなりの量の結晶やカルシウム塩におおわれている。しかし、遺体には、このように長期にわたって地下墓地に埋葬されている場合に、通常起こり得る腐敗あるいは分解の形跡は、まったく見られなかった」(コント博士の報告書)
この報告に対し、わたしにはコメントすることは何もない。どう判断すればいいのか、よくわからないのだ。ただし、宗教界は判断を下した。3回目の遺体鑑定の2か月後、1925年6月14日、教皇ピオ十一世は、ベルナデッタを「福者」として公に宣言した。
ちなみに、それから8年後の1933年12月8日には「聖人」に列せられている。
◆資料室======================
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▲ベルナデッタがルルドから持ってきた日傘とカバンが展示されていた。 |
修道院の気持ちのいい庭を回ったあと、資料室を見学した。心にとまったのが、ベルナデッタがルルドから持ってきた日傘とカバン。荷物はこれだけ? こんな小さなカバンに収まるほどしかなかったの? そんなことはないだろうが、貧乏だったという先入観があるせいか、どうもかわいそうだという気持ちが先にたつ。
もうひとつ、室内を写した大きな写真を背景に、木の床に置かれた肘掛椅子が気になった。椅子の布地も色あせ、どう見ても使い古したものだ。ただ、モノクロの写真をバックにしているせいか、色あせてはいても布地の赤いストライプが妙に目立つ。フランス語が読めないので由来はわからないが、なんというか、椅子に存在感がある。
あとでわかったのだが、ベルナデッタは、この椅子に座って息を引きとった。そのときの様子が冊子に書かれていた。要約すると――。
1879年4月16日、水曜日、午前11時を少しまわったとき、ベルナデッタは呼吸困難に陥りそうになった。そのため、寝ていたベッドから、火がパチパチと燃えている暖炉の前にあった肘掛椅子に移され、両足は小さな足台に乗せられた。ときおり薪のはぜる音を聞き、炎の温かさを感じながら、ベルナデッタは最期の時をすごした。そうして、午後3時15分ごろ、静かに息を引きとった。
▲ベルナデッタが亡くなるときに座っていた肘掛椅子。背景写真の右端のベッド(十字の印がついている)が彼女のもの。 |
◆2つのピリオド===================
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▲修道院の昼食。
▲修練院の集会室。
▲聖十字架病室。
▲修道院の廊下。
▲聖堂の入り口。
▲聖堂の入り口を入ったところ。
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資料室の見学が終わったところでお昼になった。修道院の食堂で、ローストビーフにジャガイモ、パン、カフェオレの昼食。なかなかの美味だった。
食事が終わり、食堂から廊下づたいに行ける「修練院の集会室」と「聖十字架病室」、そして「聖堂」を見学する。
「修練院の集会室」はベルナデッタがルルド時代にピリオドを打ったところともいえる。修道院に着いた翌日、ベルナデッタはこの集会室で、300人のシスターたちを前にマッサビエルの洞窟での出来事を話したという。それが彼女の最後の証言になった。以後、彼女がルルドについて語ることはなかったそうだ。
そして「聖十字架病室」は、ベルナデッタがその人生にピリオドを打ったところ。前に書いた肘掛椅子のあった部屋だ。
病に苦しむ彼女は一日の大半をこの部屋ですごすようになり、聖堂にも行けなくなったので、白いカーテンで囲まれた自分のベッドを「私の白い聖堂」と呼んでいたそうだ。
病室には3台のベッドが並べられていたが、ベルナデッタのベッドをおおうカーテンには十字のしるしがついていた。
◆聖堂=======================
修道院の中は静かだ。廊下にはアーチ型の大きな窓から明るい光がさしこんでいる。ひょっとしたら、ベルナデッタもこの廊下を歩いたのだろうか。
聖堂の扉を開け、中に入る。両脇に木製のベンチ、真ん中に通路、正面にはキリスト像が見える。
細長い聖堂。それほど広くはないな。そう思ってまっすぐ歩いていくと、正面祭壇の手前で、右側に、祭壇と同じぐらいのスペースがあることに気づく。細長いと思っていた聖堂は、祭壇のところで横に広がっており、そこがベルナデッタの眠る墓所だった。
墓所とは言ったものの、死者を葬る場所という暗い雰囲気はない。そこは祭壇の右の間という位置にあり、壁で区切られた四角い部屋だが、アーチ型の大きな開口部で祭壇とつながっている。
同じ開口部が前面にもあり、そこから部屋の中を見ることができる。側面の壁にはステンドグラスがあり、青っぽい光を投げかけている。
▲正面祭壇の右の間に、ベルナデッタが眠る棺が置かれている。
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前面のアーチ型開口部には低い柵が設けられ、その向こうに、ステンドグラスから漏れる光のもと、がっしりとした木製台の上に棺が置かれている。
棺には正方形の3枚のガラスがはめ込まれ、横たわる人物の姿がはっきり見える。35歳という若さで亡くなった聖ベルナデッタの遺体だ。黒い修道服をまとい、まるで眠っているかのようなその顔は、130年余の時を超えて生き続けているようにも思えた。
胸の前で組み合わされた両手。彼女はまだ祈っている。
▲聖ベルナデッタの遺体。 |
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▲棺に眠るベルナデッタ。顔と手は、薄い蝋でマスキングされている。(『聖ベルナデッタ―その体について―』より複写)
▲ベルナデッタに祈りをささげる人たち。
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柵の前にひざまずき、棺の中のベルナデッタに祈りをささげる男性がいる。彼はたぶん祈りの言葉を口にしているのだろうが、その低い声でも届きそうなほど、ベルナデッタの棺は近い。ひざまずけば目の前にベルナデッタがいる、そんな感じだ。
そして、棺の前に並べられたベンチにも、頭をたれて同じように祈る人がいる。わたしは後方のベンチに座り、そうした光景をぼんやりと眺めていた。信者でないわたしは、祈る言葉を知らないから。
ふと頭に浮かぶのは、祈りと願いは違う、という文章だ。どこで読んだのかな。そうそう、事前に送られてきたツアー資料だ。ヨーロッパ・カトリック聖地巡礼センターの「ベルナデッタをたずねて」という小冊子の中に「祈りとは」という一文があった。
「祈り」はキリスト者にとっては、最も大切な、そして基本的な行為です。
私たちは普通「祈り」というと、どうしても「病気が早くなおりますように」、「試験に合格するように」といったことを考えがちです。でも、これは「お願い」であり、「祈り」とはすこし違うようです。
これを読んだときにドキリとした。まさしく今のわたしがそうだ。今回のルルド巡礼も、これまでの四国巡礼、沖縄巡礼も「祈りの旅」と言ってはきたが、実際は「お願い」の旅だったのだ。
指摘されればまさにそのとおり。実によくわかる。しかし、では、祈りとはなに?
「祈る」とは、苦しみ悩んでいる私を早く助けてほしいというお願いではなく、苦しみ悩んでいる私の心をまず「神にあずける」(神学的な意味で従順)ことなのです。……
「祈り」とは、「心を神にあずける」こと、「神のまえでお願いをしないで黙ってみること」でもあります。
そういうことか。
*この苦しみから私を救ってください、と祈る→これはお願いであり、祈りではない。
*苦しんでいるわたしの心を神にあずける→これが祈り。
あるいは、
*苦しんでいる自分の事情を訴えず、ただ黙って神のまえに立つ→これも祈り。
▲聖堂で行われたプライベートミサ。ここには祈りの実践があるように感じた。 |
本当は神にすがり、頼りたいのだが、じっと我慢してお願いをしない。そして、ただ神のまえにぬかずき、心を神にあずける。神に従順になる……。それが祈るということのようだ。
わたしにはよくわからない。これまで、がんを治してください、というお願いをしてきた。それを祈りと思っていた。だが、それは祈りではない、と言われれば途方に暮れるだけ。
頭では、祈りと願いの違いはなんとなく理解できる。テニスのダブルスで「お願い!」というと、パートナーがボールを追いかけてくれる。楽でいい。でも、いつもいつも「お願い」ばかりしているわけにはいかない。同じことなのかな。いや、ちょっと違うな。
◆アケロー=====================
修道院内の見学を終え、少しの間、自由行動になった。新緑がまぶしい庭をぶらつく。いい天気だ。木陰のベンチに座ると、涼やかな風が吹き抜け、木漏れ日がキラキラ踊る。風が心地よい。
ちょっと疲れたな。ベンチに寝ころぶ。鳥のさえずり。遠くで車の走る音。庭園を見学する人の声がかすかに聞こえる。おだやかな時間。あたたかな時間。なんのとらわれもなく過ごせる時間。
この感じは、たとえば四国の田舎のお寺で、お昼休みのひとときをのんびり過ごしたときとまったく同じ。不思議なものだね。国は違えど、なんの変わりもないということは。
▲ベンチに寝ころんで見上げた空。 |
ベンチに寝転んで空を見ていると、この修道院に来る前、ルルドの地でベルナデッタが見た「アケロー」のことを思いだした。もしも、わたしが見ているこの空に、同じものが突然現れたら……。
あのこずえあたりに、さっき見てきた水の聖母のようなものが、ふんわりと浮かんでいたら、わたしは、ほかの人にそれをどう説明するだろうか……。
わたしもベルナデッタと同じく、「あれ」というしかないかもしれない。それは決して人ではないのだから。この世のものではない尋常ならざるもの。だが、わたしの目には、はっきりと見える。
そうなれば、わたしは、人のような形をしているが人ではない「あれ」が、空に浮いているのをたしかに見た、と言うしかない。ベルナデッタが「アケロー」と言うしかなかったように……。
……いかん、いかん。白昼夢にふけっている場合じゃない。集合時間に遅れてしまう。
帰りのバスはパリ市内の手前で渋滞。それほどひどくはなかったが、夕食の時間には少し遅れた。夜の8時になっても9時になっても日が暮れないパリは、夕食後もまだ明るかった。明日は帰国。パリともお別れだ。 (ルルド巡礼記 終わり)
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