東御廻り 
  【あがりうまーい】 

 2010年9月28日、2年9か月ぶりに沖縄に来た。沖縄には聖地を巡る古来の行事がある。その聖地巡礼を体験するためだ。
▲那覇の国際通り。ここからモノレールで20分ほどのところに琉球王国の首都だった首里がある。その首里から東海岸を経巡る聖地巡礼は、初代の琉球国王から200年にわたって続いた。また、琉球における最高位の神女(のろ)である聞得大君(きこえおおぎみ)が就任のおりにこの巡礼を行い、国を挙げてのお祝いとして多くの文献に記されている。


 沖縄では東方を「あがり」と呼ぶ。「あがり」には理想郷ニライカナイがあると伝えられ、はるかな昔、そこから創造神アマミキヨがやってきて琉球の地をひらいたと伝承される。

  アマミキヨが天上より降り立った最初の地が久高島(くだかじま)であり、また琉球本島をつくって各地にグスクを構え、稲を植え、人の世をつくったとされる。

 こうしてニライカナイからやってきたアマミキヨにまつわる聖地が琉球各地に印され、初代の琉球国王である尚 巴志(しょう はし・1372-1439)が、その聖地を拝巡する東御廻り(あがり うまーい)を始めたという。

 こんな由来を知れば、終の住み家は沖縄と考えたこともある私としては、癒しの旅のひとつとして沖縄巡礼に出かけねばなるまい。

▲今回歩いた東御廻り(あがりうまーい)のルート。約37キロ。2日かけてのんびり歩いた。本来は首里→与那原→知念→玉城と廻るが、久高島(くだかじま)を最終地にしたかったので、与那原から玉城→知念と逆廻りで拝巡した。

 沖縄にはこれまで4回通った。
 2007年12月28日は、4回目の沖縄旅行から帰った翌々日だった。そして、その日にがんの宣告を受けた。
 ああ、これで、再び沖縄へ行くことはあるまい。そう観念したものだが、あれから2年9か月、今こうして沖縄の空気に包まれている。がんをわずらって一度はあきらめた沖縄移住の夢よ、再び――。


 宿泊した那覇のホテルで朝食をすませ、リュックを担いでモノレールの見栄橋駅(みえばしえき)まで歩いて10分。そこから20分乗って儀保駅(ぎぼえき)下車。歩いて15分で首里城(しゅりじょう)到着。

 沖縄巡拝の出発点、園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)は、守礼門のすぐ脇にあった。見ると立派な拝殿がある。しかしそれが本体ではなく後ろに控えた森が聖所であった。御嶽というものはそういうものらしい。

 園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)  

▲石門は世界遺産に登録。
▼守礼門。

▲園比屋武御嶽(すぬひゃんうたき)の石門。いわゆる拝殿に当たるものだ。では、本殿はどこに? 実は本殿に当たる建物はない。石門の背後に広がる森が本殿だという。自然そのものが崇拝の対象ということだろう。


 癒しを願う聖地巡礼は祈願の旅でもある。さて、祈りの言葉をなんとしたものだろう。
 沖縄の神々よ、我に心身の健康を与えたまえ……ではものものしい。気持ちはそうなのだが、少しくだいてまとめたのが次の祈願文だ。
 「東京都の日野市から来ました青木彰といいます。沖縄の神々よ、私に心身の健康をお授けください。よろしくお願い申しあげます」
 口に出して言うのも気恥しいから、胸の内でそっとつぶやいて黙礼し、祈願終了。  ↑ページTop

 次は約5キロ歩いて与那原町の御殿山(うどぅんやま)だ。
 9時出発、10時30分着。2番目の聖所、御殿山(うどぅんやま)は、与那原コミュニティーセンターの裏手にあった。小さな拝殿が、茂った葉に守られるかのようにたたずんでいる。

 御殿山(うどぅんやま)

▲小さい祠のような拝殿。
▼案内板の右端の女性が聞得大君(きこえおおぎみ)。
▲与那原コミュニティーセンターの裏手にある御殿山(うどぅんやま)。戦前は立派なお宮があったというが、今は写真のようにひっそりととしたたたずまいを見せるだけで、往時の威容をしのぶすべはない。木陰は風が吹き抜けて涼しかった。


 ここの印象は、こじんまりとさりげなくたたずんでいる、といったところ。拝殿脇に立てられた案内板が来歴を説明していた。聞得大君(きこえおおぎみ)が巡拝して廻った「御新下り(うあらうり)」では、首里を出て最初の休息地がここだったとか。祈願したあと私もしばし休憩。  ◆ページTopへ

 東御廻り(あがり うまーい)の3番目の拝所(うがんじゅ)、 親川(うぇーがー)は、御殿山(うどぅんやま)から歩いて10分ほどの公園にあった。本来は聖泉として敬われてきたというが、現在はその上に拝殿が建てられており、泉をしのぶことはできない。拝殿前で祈願。

 案内板によると「親川(うぇーがー)の聖なる水を浴びることで霊力を授かる」とあり、「御新下り(うあらうり)」の際には「お水撫で(う びぃ なびぃ)」の儀式がとりおこなわれたという。
 「お水撫で(う びぃ なびぃ)」とは、親川(うぇーがー)の水をくんで中指を浸し、額を撫でる呪法で、脱皮・再生のための聖水儀式だそうだ。  ↑ページTop

 親川(うぇーがー)

▲公園の一角にある親川(うぇーがー)の拝殿。▼「お水撫で(う びぃ なびぃ)」の様子を描いた案内板の絵。
▲親川(うぇーがー)の拝殿。冷たい水がこんこんと湧き出ていたその昔、この冷泉の聖水を浴びることは天女の霊力を授かることでもあったという。さしずめ日本版ルルドの泉といったところか。


 さて、次は。
 透明なカードケースに予定表を入れ、首からぶら下げていつでも見られるようにしてある。それによると、次の拝所(うがんじゅ)までは5・8キロ。1時間半ぐらいの距離か。時計を見ると11時。途中でお昼ごはんだな。
 歩いているとお昼になったが、適当な食堂がない。寿司屋が一軒あったが、お昼に寿司でもあるまい。地元の魚でも食べさせてくれるならまだしも本土のマグロじゃいやだ。前に来たときそんなことがあったのだ。

▲南城市の新開都市緑地公園で昼食。お昼は1時間休むことにしており、、靴下を脱いで汗を乾かす。木陰にあるベンチは海風が吹き抜けて気持ちよかった。昼寝には最適。

 寿司屋をパス。ところがその先は行けども行けども食べ物屋がない。ようやくJAののぼりを見つけ、それを目当てにフラフラッと横道にそれると、野菜市場が目に入った。しかたがない、お昼は果物だ。

 バナナ、柿、それとサーターアンダギーを買う。市場の隣にグランドがあり、その先に海に面した公園があったのでそこのベンチで昼食にした。
 海からの風が汗まみれの体を吹きぬける。あ〜生き返る。サーターアンダギーの甘さが疲れをとってくれる。お昼というよりおやつの感じだが、お腹がいっぱいになればいいじゃないか。この際、食養生の原則はとやかくいわないことにしよう。

 お腹はくちた。ごろりとベンチに横になる。いつの間にか眠ってしまった。ふと気づくと、時計は1時を回っている。あわてて出発。

 国道331号線を歩いていると道路の右側に大きな鳥居があり、、佐敷上グスク(さしきうぃぐすく)の案内標識があった。右折して小学校の脇を抜け、上り坂を7、8分歩くと木立に囲まれた広場がある。そこが佐敷のグスクだった。1時40分、4番目の拝所(うがんじゅ)、佐敷上グスク(さしきうぃぐすく)着。階段を上り、月代宮(つきしろのみや)にお参りする。祈願。  ↑ページTop

 佐敷上グスク(さしきうぃぐすく)

▲鳥居の先がめざすグスクだ。
▼月代宮(つきしろのみや)へ行く階段。

▲佐敷上グスク(さしきうぃぐすく)の広場から階段を上りつめたところにある月代宮(つきしろのみや)。このグスクは琉球を統一して初代の琉球国王となった尚 巴志(しょう はし)とその父、尚 思紹(しょう ししょう)の居城跡とされている。月代宮(つきしろのみや)は尚父子を含む八体を合祀し、明治期に建立された。


 今日最後の拝所(うがんじゅ)、馬天御嶽(ばてんうたき)までは1・6キロ。楽勝、と思っていたら、道に迷ってしまった。標識はあったのだが、矢印の方向をよく確認せずに直進してしまい、途中で気づいて元来た道を引き返すはめに。急がず念入りに確認すること。思い込みはダメ。

 馬天御嶽(ばてんうたき)は道路わきの小高い丘にあった。石段をトントンと上ると拝所(うがんじゅ)が点在する平たい場所に出る。御嶽の例にもれず、まわりはこんもりとした木立だ。いび御嶽の石碑は文字が読めたが、あとはよくわからない。データでは6つの御嶽があるといっていたが、はっきりわかるのは3つしかなかった。やぶ蚊をピシャピシャ叩きながら祈願。

 馬天御嶽(ばてんうたき)

▲拝所(うがんじゅ)のひとつ。いび御嶽と読める石碑がある。▼下の2つは石碑の文字が削れていて読めなかった。

▲馬天御嶽(ばてんうたき)がある小高い丘の上の広場。直径20メートルぐらいの丸い広場に拝所(うがんじゅ)が点在している。木立をすかして、左、中央、右と並ぶ3つの拝所(うがんじゅ)を写したが、よくわからないのは腕が悪いせいだ。尚 巴志(しょう はし)の祖父が戦に敗れて移り住んだところだという。







 2時35分、馬天御嶽(ばてんうたき)を後にする。これで本日の巡拝は終わり。1・4キロ先には宿泊予定の
ユインチホテル南城がある。3時着。1泊2食12.710円也。
 いやあ、最高だね、このホテルは。とにかく部屋からの眺めがいい。
 中城湾から外海へと連なる海の広がり。水平線には細長い島影が揺らぐ。右手は知念の半島が伸び、丘の上には大きな風車が2基、ゆっくりと羽根を回している。ホテルの真下は原生林。その向こう、海に続く平地にはサトウキビ畑が一面に広がっている。
 ベランダに出ると海からの風が実に心地よい。高台に建つホテルの5階の部屋だから、風も強い。強いけれど柔らかい。南国の風、沖縄の風だ。



宿泊したユインチホテル南城の様子。泊ったのは6階の部屋だったので眺めは抜群。巡礼の旅では「遍路の早立ち、早仕舞い」をモットーにしているが、3時に投宿するとこんな景色も見られるということ。夜は夜できれい(左の写真。食堂でのスナップ)なのだが、一人旅ではいくらムードがあってもらちもない。


 本日の歩行距離は14・2キロ(3時間40分)、歩数は3万2434歩だった。ちなみに、お遍路をやっているときはこんなものではない。毎日30キロ超が普通。なので、今日は楽勝も楽勝だった。使用金1万3820円。

↑ページTop 



 東御廻り(あがりうまーい)2日目の9月30日も上天気だ。
 6時起床、7時朝食、8時出発。と、ここまではよかったのだが、やってしまった。左に曲がるべきところを右に曲がった。それもホテルを出てすぐだ。
 思い込みなんだな。ホテルから国道に出たら右。そればかりを思っていて、ホテルの敷地を出たところで右に曲がってしまったのだ。
 最初は、朝の散歩のつもり。のんびり20分歩いたところで、工事中・迂回の標識に出くわす。その地図がよくわからなかったので、通りがかりの車をとめて聞いてみた。すると、迂回うんぬんよりも逆方向に歩いてきたことが判明した。
 ショック。往復だと40分のロス。元来た道を引き返し、ホテルの門の前を通過して、国道331号にぶつかる。ここが右折するべき場所なのだ、チクショー。

 2・6キロ歩いて9時46分に玉城グスク(たまぐすくぐすく)着。
 目印にした県立玉城少年自然の家で水をもらい(ここには自販機がなかった)数分歩くと、道路わきの広場に玉城城跡の石碑があった。
 広場を突っ切り細い山道を行くと階段がある。上るとグスクの入り口に当たる岩をくりぬいた城門が見えた。人ひとりがくぐり抜けられるほどの丸い入り口。この本丸門は、東方はるかにあるニライカナイに通じるとされ、夏至と冬至の日には太陽の光がまっすぐ差し込むという。荘厳、かつ幻想的な光景が見られるそうだが、それはまたの機会だ。

 玉城グスク(たまぐすくぐすく)――1

▲玉城城跡を示す石碑。
▼本丸門から眺める景色。

▲玉城グスク(たまぐすくぐすく)の入り口にある本丸門。くり抜かれた岩をくぐり抜けると城跡がある。ここから振り返ると久高島(くだかじま)が横たわる海が見える。その方角がニライカナイに通じる東方だ。


 門をくぐると小さな広場がある。ところどころに青い工事用のビニールがかぶせられ、7、8人の作業員がてんでに休んでいた。こんにちわとひと声かけて広場に入る。グスクの修復作業中だった。ちょうど午前中の休憩らしく、作業員はのんびり休んでいる。こちらも休憩も兼ねて1時間ほどグスクにいた。

 この城は「アマミキヨが築いた城であるとの伝説があって、城主はアマミキヨの子孫即ち、天孫子であったと伝う」との説明が案内板に記述されているとおり、あがりうまーいでも重要な御嶽といえる。
 本丸門をくぐり石段を降りたところにあるのが雨粒天次御嶽(あまつぎあまつぎのうたき)。ほかにも2つ、立派な拝所(うがんじゅ)がある。修復中の石積みもそうらしく、この広場はこれまで回ったなかでも最大規模の御嶽だ。

 玉城グスク(たまぐすくぐすく)――2

▲▼城跡で見られる拝所(うがんじゅ)。修復中のものもあり、ここは東御廻り(あがりうまーい)でも最大規模の御嶽のようだ。
▲雨粒天次御嶽(あまつぎあまつぎのうたき)。本丸門をくぐって石段を降りると正面にあるのですぐにわかる。その昔、干ばつのおりには国王自らがこの場所で雨乞いの祈願を行ったと伝えられている。


 グスクは小高い丘の頂上にあり、遠くに海が見える場所で休んだり、拝所(うがんじゅ)の写真を撮ったりしてのんびり過ごした。さて出発だ。修復作業の人たちはまだくつろいでいる。  ↑ページTop

 10時30分出発。11時23分ミントングスク着。たった1・9キロなのに、場所がわからず時間がかかってしまった。ここは事前に調べきれなかった拝所(うがんじゅ)だ。案の定、見当をつけた場所にはない。ウロウロと探したあげく、ガソリンスタンドで聞いてようやくわかった。だいぶ前に通り過ぎた場所だった。

 引き返し、ようやく探し当てた。個人宅の敷地脇から入っていくのだが、案内を請おうにもだれもいない。こわごわ入っていくと、寄付をつのる張り紙が目に入った。「ミントングスクの敷地はすべて私有地となっております。管理のために心ばかりの寄付をご協力よろしくお願いいたします」とある。
 個人が管理しているグスクだが、見学はご自由にということらしい。どうりでだれもいないわけだ。入園料なら1000円もあればいいだろう。札を一枚入れ、石段を上る。
 少し行くと頂上だ。そこはちょっとした広場になっており、うっそうとした木立を背景に拝所(うがんじゅ)が静かにしつらえられていた。祈願。

 ミントングスク

▲この石段の先に拝所(うがんじゅ)がある。▼右奥の石積みも拝所(うがんじゅ)のようだ。こちらに側は木立がなく海が見える。
▲ミントングスクの拝所(うがんじゅ)。白いサンゴが敷き詰められた拝所(うがんじゅ)は、木漏れ日を反射してきらきらと輝いていた。個人の管理だが、きれいに整備されており気持ちがいい。私有地で参拝できないかと思っていたので感激もひとしお。


 グスクの東南面は海が一望できるぐらいに開けている。ちょうどお昼前で太陽は中天に輝き海の色が実にいい。沖は藍色だが、近くは青色に光が透き通ったようなスカイブルー。これは海底が白い砂でないと見られない色だ。サンゴの海の証拠でもある。風も気持ちいい。心が明るくさわやかになる。これが沖縄の海と空と自然がもたらす癒しだ。  ↑ページTop

 12時前にミントングスクを出発。次の受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)は、東御廻り(あがりうまーい)のコースを調べているときの読みがどんぴしゃ。大きな道路をそれて、林の中を横切る形で受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)への近道(散策路があった。)30分ほどの時間短縮。

 受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)にある水田(親田、御穂田)には、とうとうと水が流れ込んでいた。その水量の多さに驚く。ほんの小さな水田。稲は順調に育っており穂が出かかっていた。
 玉城村教育委員会の案内板によれば、「アマミキヨがニライカナイから稲の種を持ってきて親田に植え」とある。ゆえにこの地が沖縄の稲作発祥の地とされているのだ。祈願。  ↑ページTop

 受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)

▲受水(うきんじゅ)の脇の水路にはとうとうと水が流れていた。
▼受水(うきんじゅ)。

▲受水(うきんじゅ。写真中央の岩のような部分)と御穂田(みふぅだ。写真左手前の水田)。沖縄の稲作発祥の地とされる聖地だ。ところで走水(はいんじゅ)だが、ここから少し離れた場所にあるそうで、うかつにも撮り損ねてしまった。


  受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)には林の中を通ってきたが、それは背後から入る道で、車で来るなら農道を通る。まずはその農道へ出て左折。舗装された立派な農道を行く。右手には防風林がありその向こうは海だろう。

 10分歩いてヤハラヅカサ着。沖縄に着いて初めて砂浜に立つ。ヤハラヅカサの石碑が、海面から1メートルほど顔を出していた。靴を脱ぎ捨て海に入るが、それほど近づけない。石の表に刻まれた文字がかろうじて読めるぐらいの距離だ。間違いない。ヤハラヅと刻まれている。祈願。

 ヤハラヅカサ

▲「ヤハラヅ」までは見えるが「ヅ」の半分から下は海の中だ。
▼浜昼顔の咲く砂浜でお昼にした。

▲案内板の説明によればヤハラヅカサは「琉球開びゃくの神アマミキヨがニライカナイから上陸した際の第一歩を印した場所」とある。岩がポツンと顔を出したあそこがそうなのか。しばし感慨にふける。できれば潮が引くまで待ちたかったが……。


 アマミキヨはニライカナイから渡来し、久高島(くだかじま)、そして本島に降り立ったと伝えられるが、本島のその地がこの浜であり、ヤハラヅカサはニライカナイへの遥拝所とされているそうだ。

 地図では百名ビーチの端に位置していたので海水浴の人がいるかと思ったが、砂浜はしんと静まり返りひとっこひとりいない。海辺から少し離れた浜昼顔が咲き乱れる場所に座り、目の前に広がる海を眺める。日は高く、海はうす青く透き通り、静かに波が打ち寄せる。風が吹き抜けて暑さはそれほどでもない。疲れは少しあるが、気持ちよさのほうがまさっている。いいなあ、ここは。

 のんびりのんびり聖地巡りを楽しんでいるので、予定より大幅な遅れ。もう昼食の時間。だれもいない海辺で食べ物屋などあるわけがない。昨日のお昼で残ったバナナと柿でささやかな昼食。サーターアンダギーも残っているのだが、それほど食欲がない。それにいたんでいるかも。  ↑ページTop

 1時出発。次の浜川御嶽(はまがーうたき)は、ヤハラヅカサのある海辺からすぐの林の中にある。本島にやってきたアマミキヨが仮住まいをしたところだという。ここでも祈願。

 浜川御嶽(はまがーうたき)

▲線香立てが置かれていた。
▼御嶽で出会ったおじいさんにもらったグァバは大変においしかった。。

▲この御嶽はヤハラヅカサに降り立ったアマミキヨが仮住まいをしたところだそうだ。写真の拝殿は高さが1メートルほどのもので、ちょっと見には小さな祠のようだ。神名を「ヤハラヅカサ潮バナツカサ」というらしい。


 浜川御嶽(はまがーうたき)のすぐ下の小さな流れでおじいさんがラッキョウを洗っていた。
 生でも食べられるよ。
 ひとついただきます。
 昔はこの水を飲んでいたんだよ。グァバを食べるかい。
 そう言って歩きだしたおじいさんの後についていくと自転車がとめてある。前かごにグァバやバナナが積んであった。バナナはさっき食べたばかりなので辞退し、グァバを2個いただく。
 歩きながらかじる。ひとつは熟していて甘酸っぱくおいしい。もうひとつはまだ固くて甘さもない。食べられなくはないのでかじりかじり歩く。次の御嶽まで5・3キロ。気を入れて歩かないと。 ↑ページTop

 汗みどろになって知念大川(ちねんうっかー)に到着。だが、下調べした地図の場所にはない。おかしいなと思いつつも歩いていると見慣れた標識があった。これがあると大いに助かる。200メートルほどずれていたが、道路脇にあったので見逃さずにすんだ。
 大川とあるが、幅1メートルもない小川が流れているところに小さな石造りの拝所(うがんじゅ)があった。例によって背後はうっそうとした木立だ。祈願。  ↑ページTop

 知念大川(ちねんうっかー)

▲標識が頼り。
▼知念グスクへ行く石畳の道。

▲知念大川(ちねんうっかー)の拝所(うがんじゅ)。ここは受水・走水(うきんじゅ・はいんじゅ)と同じく、アマミキヨが稲を蒔いたとされる場所だ。水源地は拝所(うがんじゅ)の背後の崖下にある「ウファカル」と呼ばれる湧泉らしい。聖域に踏み込むのは遠慮して確認はしなかった。



 次の知念グスク(ちねんぐすく)は、知念大川(ちねんうっかー)のすぐ近くのはずだが場所がわからない。畑で農作業をしていた人に聞くと、知念大川(ちねんうっかー)の脇の山道を登っていくとあるのだそうな。なんじゃい、それなら標識ぐらい立てておけよな。またまた元来た道を戻り、知念大川(ちねんうっかー)をよくよく見ると、なるほど、荒れた石畳の道が山の中に入っている。歩くこと5分でグスクに着いた。

 知念城跡には石造りのアーチ門や城壁などが残されている。だが、整備されているとはいいがたく、城域は草ぼうぼうだった。そこを抜け、こんもりした木立の中に入ると小さな広場になっており、石積みがある。無造作に石が置かれただけだが、雰囲気がほかとは違う。標識も何もないが拝所(うがんじゅ)に違いない。祈願。

 知念グスク(ちねんぐすく)

▲広場の石積み
▼知念城跡の全景。

▲まわりを木立で囲まれた小さな広場に石積みがあった。案内板や標識がないのではっきりしないが、雰囲気からしてどうやら拝所(うがんじゅ)のようだ。


 拝所(うがんじゅ)の木立から出ると、左手は切り立った崖になっており、遠くに海が見える。吹き抜ける風が疲れをとってくれる。しばし休憩。ここに家を構え、崖に張りだしたテラスでこの風を受けながら昼寝をしたい。そんな妄想をかきたてられる涼しい場所だった。  ↑ページTop

 休みもとったし3時出発。いよいよ東御廻り(あがり うまーい)のハイライト、世界遺産にもなっている斎場御嶽(せーふぁーうたき)だ。
 実を言うと、ここは5年前、カミさんときたことがある。沖縄移住を考えていたころのことだ。しかし、当時は御嶽に興味があるわけでもなく、通り一遍の観光だったので記憶はあいまいだ。
 歩くこと1時間で到着。汗をぬぐいつつ見ると、入り口で入場券を売っている。えっ、入場料が必要だったっけ。まあ、いいか。今回の御嶽巡りで初の出費。金200円也。

 最初の拝所(うがんじゅ)である大庫裡(うふぐーい)は前に来たときより乾いた感じ。枯れたおじいさんになってしまったような。生命力が少ない感じを受けたのはなぜだろう。
 次の寄満(ゆいんち)では白衣の婦人が祈願をしていた。ノロなのか?

 斎場御嶽(せーふぁーうたき)――1

▲御嶽の入り口にある石碑。
▼寄満(ゆいんち)の来歴を記した案内板。

▲斎場御嶽(せーふぁーうたき)の大庫裡(うふぐーい)。聞得大君(きこえおおぎみ)の御新下り(うあらうり)の際には、ここで「お名付け(霊威づけ)」の儀式が行われたという。


 近寄っていくと、拝所(うがんじゅ)から数歩離れたところで所在なげに控えていたおじさんが話しかけてくる。やっぱり霊的な作業は女性が主で男性は従。遠くから見守るしかないのだ。
 本土から。
 はい。
 今、健康のことでやっているんですよ。
 そうですか。私も健康を祈って御嶽巡りをしています。
 ここは久高島とも関係があります。
 そうらしいですね。明日その久高島に行くんですよ。
 祈願のじゃまにならないように男同士ボソボソと話をして、写真は撮らずに拝所(うがんじゅ)を後にした。祈願の様子を撮るのはご法度と聞いていたので。

 順路に従い、次は斎場御嶽(せーふぁーうたき)のハイライトである三角岩だ。巨大な岩が三角形の空間を形作り、くぐり抜けると聞得大君(きこえおおぎみ)の最高秘儀が行われたたという三庫裡(さんぐーい)や京のはな(ちょうのはな)といった拝所(うがんじゅ)がある。ここはアマミキヨが降臨するともいわれ、最も格の高い拝所(うがんじゅ)とされている。祈願。
 三庫裡(さんぐーい)の左手にはぽっかりと丸い空間。東方の久高島(くだかじま)を遥拝することができるのだ。ただし、かつての三庫裡(さんぐーい)は三方を石壁に囲まれていた。この空間は、石壁の一角が崩れたことによるという。偶然にしても東方の壁が崩れたというのは、何かの因縁を感じざるをえない。

 斎場御嶽(せーふぁーうたき)――2

▲京のはな(ちょうのはな)。
▼ここから久高島(くだかじま)が見える。

▲巨大な岩が三角形の空間を見せている。突き当たりに立つ人を見れば岩の大きさがわかるだろう。この奥に三庫裡(さんぐーい)などの拝所(うがんじゅ)ある。斎場御嶽(せーふぁーうたき)の代名詞ともされる場所がここだ。


 今日はここで打ち止め。当初の予定ではホテルに荷物を預け、空身でテダ御川(てだうっかー)まで往復することにしていたが、時間も5時を過ぎているし無理することはない。明日もたっぷり時間がある。
 というわけでホテルサンライズ知念にチェックイン。通された部屋はツインの302号室。清潔な部屋ではある。だけど、できればもうひとつ上の4階で、もっと海側の部屋がよかった。シニア割引の一泊7300円じゃあ、文句も言えないが。  ↑ページTop
 本日の歩行距離は22・7キロ(5時間40分)、歩数は3万6333歩だった。使用金9500円。



 今日は沖縄に来て4日目。暑さにも慣れた。なのに、起きると空が曇っている。
 朝食をそそくさとすませ、チェックアウトをしている最中に雨が降りだした。ここが年貢の納め時、合羽を使うときがきたということだ。
 身に着けると、とにかく暑苦しい。2、3分歩いてすぐに半そでに変更。この合羽はジッパーで袖が取り外せるようになっているのだ。いくらかましになったが、ズボンだけは半ズボンにするわけにはいかない。これまでの短パンとは大違いだ。
 ゆううつになりかけたところで雨がやんだ。これ幸いとズボンのすそをまくり上げる。涼しい。

 ホテルからテダ御川(てだうっかー)まで2・1キロ。ホテルを出るとすぐ安座真港(あざまこう)がある。午後にはここから久高島(くだかじま)に渡る予定だ。
 港を右手に見て海沿いの道を40分ほど歩き、案内標識に従って大通りから狭い道へ入る。幅は1メートルほどと狭いがコンクリートの立派な歩道だ。7、8分歩き、さらに113段の長い階段を降りると、その先にテダ御川(てだうっかー)があった。
 海岸の岩を背後に石碑が建立されている。本来は霊泉。昭和の初めに泉が枯れたという。ちなみにテダとは太陽を意味し、ここに太陽神が降臨したと伝えられている。東御廻り(あがりうまーい)最後の祈願。

 テダ御川(てだうっかー)

▲岩の向こうは海。
▼この階段を下りた左手にある。

▲テダ御川(てだうっかー)の石碑。その昔、琉球国王が久高島(くだかじま)に渡るとき、ここで飲料水の補給をしたそうだ。私も明日は安座真港(あざまこう)からその久高島(くだかじま)へ渡る。


 さて、これで東御廻り(あがりうまーい)は無事に終わった。よかった、よかった。
 海に向かって大きなのびをして、だが、のんびりしてはいられない。歩きの巡礼旅はここで終了。次はバスの旅だが、時間があまりない。
 バス停まで10分足らずだ。急げ、急げ、時間がない。
 間に合った。やってきた志喜屋行きの東陽バスに乗り込む。
 実はこれからは遊びの時間なのだ。沖縄巡礼の仕上げである久高島は午後の渡船。それまでの時間を使って、沖縄の癒しスポットを訪ねてみるつもりなのだ。

  ◆聖地巡礼:沖縄の聖所  東御廻り【あがりうまーい】 ―終わり―        ↑HOME   ↑聖地巡礼   ↑ページTop