ルルド
 の
 奇跡 2

  Un miracle de Lourdes

◆ルルドの沐浴場==================
 
▲無原罪の御宿り大聖堂の内部。とにかく天井が高い。
 今日は、朝7時から「無原罪の御宿り大聖堂(上部聖堂)」でプライベートミサ。
 出席したのはわたしたちフランス巡礼団だけではなく、イタリア巡礼団(高山右近・列福を祈る巡礼団)とサンティアゴ巡礼団も加わった。合計で60名近い合同ミサになるようだ。

 昨日は外観を見ただけの大聖堂の中に入る。大きい(700人収容)。とにかく天井が高く、内部がアーチで幾重にも区切られている。それにしても荘厳かつ華麗な空間だ。信者ならずとも身が引き締まる。
 ミサは1時間弱かかり、8時前に終わった。

 ミサのあと、沐浴場に急ぐ。9時からの開始だが、すでに50〜60人が、ベンチに座って順番を待っていた。
 ロープが張られた入り口に係りの人がいて、手振りであっちに行けという。指示されたとおり、壁際に並べられた椅子に座る。

 ちょっと変だ。早いもの順のはずだから、ベンチの列の最後尾だと思っていたのに、そこではない。彼らとは向かい合うようなかっこうの沐浴場の壁際の椅子。
 
▲ミサに参列する日本の巡礼団。









▲沐浴の順番を待つ人々。
 どんな順番になっているのかよくわからない。今8時だから、あと1時間待てば列も動きだす。そうすれば自分の順番も予測できるはずだ。

 集まった人はすでに100人を超えただろう。だが、順番待ちの騒々しさはない。皆、祈りの言葉を口にしているようだ。たまたま隣の席は巡礼団の神父さまが座っていた。きちんと黒の詰襟のシャツを着て、背筋をぴんと伸ばして黙想しておられるようだ。イカン、イカン、わたしも雑念をはらわなくちゃ。
 8時51分、車いすの人が三人、そして目の不自由な人が一人、係り員に誘導されてわたしが座っているそばへやってきた。そして待機する。そろそろ9時になるころだ。

 8時55分、祈りの言葉がアベマリアの歌になった。若い女性の声がスピーカーから流れる。それに合わせ、皆がいっせいに歌う。
 アベ アベ アベ マリア。〜〜アベ アベ アベ マリア…………。
 なんだろう、これは。歌うにつれ、みんなの気持ちがつながるというか、一体感のようなものがわいてくるのを感じる。信者でないわたしも、この場所ではみんなと同じ、その一員だ。

 いい雰囲気だなあ、と思っていたら、そろそろ沐浴の時間なのだろう、係りの人に誘導されて、並んでいた全員が立ち上がる。そして隣の人と手をつなぐようにうながされる。ここにいるのはみんな仲間なんだ。思わず知らず気持ちがたかぶってくる。

▲沐浴場の前で順番を待つ人々。建物奥に見える青と白のストライプのカーテンが沐浴場の入口。

  ▲水栓はロザリオ    大聖堂の側壁にある。





 わたしの席のすぐ左側に、青と白のストライプのカーテンがかかっている。8時58分。待機していた車いすの人たちが、その中へ次々に入っていく。あ、これが沐浴場への入り口か。障害のある人が先にいくんだな。え、まてよ、入り口のすぐ隣の席に座っているということは……次はわたし?

 なんてこった! そのとおり。並んで待っていた人の中では、わたしがいの一番に招き入れられた!

◆沐浴======================
 入り口のカーテンをくぐると、右方向への通路がある。しかしそちらではなく、目の前にある水色と白のストライプのカーテンを示された。それをあけて中に入ると、脱衣所だった。椅子が壁に沿って3脚ずつ向い合せに並ぶ小さな部屋。沐浴場はその奥で、入り口には同じ柄のカーテンがかかっている。

 私を先頭に合計6人が呼びいれられ、指示された椅子の前に立つ。そして、服をぬぐようにうながされる。あわただしく服をぬぎ、靴もぬいでパンツ一枚になったところで、「イングリッシュ?」と聞かれた。ろくに話せはしないのだが、うなづいておいた。
 係員がカーテンをあけ、沐浴場に入れられる。そして「イングリッシュ オケ」といって、中にいた人にバトンタッチ。

 沐浴場には二人の人が待機していた。シーツ状の大きな布を持ったひとりが、わたしを左側の壁の前に立たせて後ろにまわり、布を広げて下半身を隠すようにしながら、パンツを脱ぐように言う。目の前の壁に手すりがある。そこにパンツをかけろということだろう。恥ずかしいなんていってられない。指示のとおりにする。

 裸になったわたしの腰に布が巻きつけられる。テント地のようにゴワゴワした感触の布は濡れていた。ヒンヤリしているが、緊張しているせいで冷たさはまったく感じない。
 うまく巻けない。両手を壁につくようにいわれる。左腰のあたりでギュッときつく巻きなおし、ようやく終了。

 二人の係員に左右から手を取られ、水槽に入る。一段おりたところでとまる。何か言われる。水槽正面の壁の女性像――マリア様にお祈りの言葉をどうぞ、ということらしい。
 何を祈るかは決まっている。心身の健康だ。胸の内で言葉を唱え、オーケーの合図をすると、いよいよ水の中に導きいれられる。

 水槽は左右1メートルほど、長さは3メートルはあるだろうか。水深はひざ下。その水の中を両手をとられて前に進み、突き当りの壁のマリア像の前で止まる。壁に手すりがあったので、それにつかまるようにして黙想。オーケーの合図をすると左右から両手をとられ、しゃがむようにうながされる。

 こわごわと腰を下げた瞬間、強く後ろに倒された。合図も何もない。完全なふいうち! 体は水の中! うわーぁ、冷たい! 倒された勢いで頭に水が飛び散り、眼鏡をぬらす。
 ダメだ、こりゃあ、頭まで水につかる! と首をすくめる間もなく、次の瞬間には、両腕をグイと引かれて立ち上がっていた。

 本当にアッという間の沐浴。水槽を歩いて元の位置に戻る。足にまとわりつく水が、凍えるように冷たい。入るときにはまったく冷たさを感じなかったのに……。

 水槽からあがって元の場所に行く。腰に巻いたシーツをほどき、それで体を囲われ、パンツをはくように言われる。体をふくということはしない。濡れたままパンツをはき、カーテンをくぐって脱衣所に戻る。
 椅子に置いておいた服を着る。もちろんこのときも体はふかない。それ用のタオルもない。ぬれたまま、シャツを着て、ズボンをはき、靴下、靴をはく。

 順番を待っている人が百人以上はいるので、なるべく手早くしようと焦る。意図したわけではないが、最初から並んでいた人たちをさしおき、割り込んで1番になってしまった身としては恐縮しきり。

 カーテンをあけて外へ出る。なんだか夢から覚めたようだ。少し誇らしい気持もある。みんなよりお先にルルドの泉のパワーをいただいたぞ。

 沐浴場を出たガブ川の岸辺がツアーの集合場所。まだだれもきていない。川岸で、今、体験した夢のような出来事を反芻していると、体がカッと熱くなってきた。
 濡れたまま服を着たのに、しめった感じはまったくない。体をふかなくてもすぐに乾きます――沐浴前に言われていたとおりだな。清冽なガブ川の流れに目をやりながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

◆ロザリオ大聖堂===================
 
▲聖ベルナデッタ教会前のベルナデッタ像。
 女性陣がそろうのを待ってロザリオ大聖堂へ行く予定だ。その間、早く終わった男性陣は30分ほどの自由時間があり、わたしはガブ川の橋を渡って聖ベルナデッタ教会などを見てきた。
 ところで、沐浴の順番の件だが、神父さまと一緒だったわたしは、聖職者が並ぶ優待席が割り当てられたということのようだ。

 ロザリオ大聖堂は聖域では3番目に建てられた聖堂になる。1889年の建立。聖堂の前は広場になっており、聖域の入り口から歩いてくると最初にたどりつく聖堂だ。
 中に入るとひときわ目を引くのが鮮やかな色彩のモザイク画。正面の円天井には両手を広げた聖母マリアと大勢の天使が描かれている。この円天井は天国を表しているとか。

▲ロザリオ大聖堂の円天井に描かれたモザイク画。両手を広げた聖母マリア、そしてその左右には大勢の天使が描かれている。

 
▲ロザリオ大聖堂。


▲地下聖堂の入り口は、人がい
る下のほう。上は上部聖堂の入
り口になる。
◆◆◆◆◆◆◆◆


▲地下聖堂の内部。





▲回廊から見下ろした地下大聖堂。


▲恐竜の骨格標本の中にいる気分?
 円天井の場所から見ると、両側が通路のようになっている。その部分を側廊とか袖廊というらしいが、そこにも見事なモザイク画が並んでいる。なんでも「ロザリオの奥義」が描かれているとか。
 ぐるりと見て回ると15の場面がある。信者ならすぐにわかるのだろうが、わたしにはさっぱり。キリストに関するおぼろげな記憶を頼りに、描かれている内容を推測するだけだ。

◆地下聖堂=====================
 この聖堂は、聖域では最初に建てられた礼拝堂だという。名前に地下という字がつくが、地下にあるわけではない。位置的には「無原罪の御宿り大聖堂」と「ロザリオ大聖堂」の間にある。だが、その上に「無原罪の御宿り大聖堂」がおおいかぶさっている。だから、見た目では地下になってしまうのだろうな。

 入り口は「無原罪の御宿り大聖堂」の鐘楼がそびえる手前にある。中に入ると側廊は人々でごった返していた。これまで見てきた聖堂に比べ、この聖堂はこじんまりしている。これからミサが行われるのか、おじさんが祭壇まわりを整えていた。

 聖堂が完成したのは1866年のことだというが、その8年前の1858年3月2日、10回目の出現時に聖母は「司祭のところへ行って、聖堂を建てるよう、ここに人びとが行列してやってくるよういいなさい」とベルナデッタに告げた。そのメッセージはたった8年で実現したことになる。
 そしてわたしも「ここに人びとが行列してやってくるよう」にという聖母の要請どおり、やってきた。もちろん、聖母のこうしたメッセージを知るはずもなく、ツアーに申し込んだだけなのだが。

◆聖ピオ10世地下大聖堂================
 ロザリオ広場からほんの1、2分歩くと、右に折れる小道が目に入る。無味乾燥なコンクリート道だ。右にカーブしているので先は見えない。それが「聖ピオ10世地下大聖堂」の入り口だった。

 少し歩くと下りのスロープになり、まるで地下駐車場のような入り口が見えた。中に入ってびっくり。何本あるのかわからないほどたくさんの柱、それも斜めになった柱が、天井を支えて見渡す限り並んでいる。柱はむきだしのコンクリート。その柱列の外側は回廊になっている。入ってすぐは中2階ぐらいの高さがあり、下にはずらりと、これまた見渡す限りに並んだベンチが見える。これまで見てきた聖堂とはまったく違う構造だ。

 回廊はゆるやかなスロープになっており、下りていくと、その広さに圧倒されるような巨大なフロアに出る。中央に祭壇、その周囲を無数のベンチがとりまく。そこだけを見ると、規模は大きいがやはり教会の雰囲気をただよわせている。
 しかし目を上に転じると、天井はむきだしのコンクリートのようで、肋骨のような梁が何十本も平行に走っている。これは巨大なくじら、あるいは恐竜の骨格標本の腹の中だな。
 とにかく規模は巨大だ。資料によれば、長さ191メートル、幅61メートル、2〜3万人を収容できる大聖堂だという。

 夕刻、この大聖堂で催された聖体礼拝式を見学した。昼間見たときとは打って変わり、聖堂内は明るい光で満たされ祭壇は照明で輝いていた。
 車いすの人がずらりと並ぶ一角がある。同じ色のTシャツを着た一団がいる。さまざまな国のさまざまな人たちが祈りをささげていた。

▲地下大聖堂で催された聖体拝礼式。

◆十字架の道行===================
 
▲雨の山道を歩く。


▲最初の留。


▲第1留――イエス、死刑を宣告される。







▲第2留――イエス、十字架をになう。
 修道院で昼食。休憩後、御聖堂で2回目のわかちあいの集いがあり、終了後は聖域の「十字架の道行」に行く。
 3時30分集合。3時38分、修道院を出発。雨がポツリポツリ降ってきた。本降りにならなければいいが。

 歩いて10分で聖域着。雨はけっこう強い。ロザリオ広場から左側のスロープを上って車道に出る。その道路を渡って数歩歩いたところで山道へ入る。最初は舗装道路だったが、すぐに砂利道になる。
 一時強かった雨は少しずつ小降りになってきた。傘をさしながら5分ほど歩くと、十字架の道行の最初の場面が現れた。

 十字架の道行――どこかで読んだ記憶はあるが、体験したことはない。なんでもイエス・キリストの磔刑の前後を14の場面に描き、それを「留」というらしい。そして、それぞれの留でキリストの受難をしのび、黙想する。

 第1留は山道の右側の斜面、木立に囲まれたところにあった。ツアー資料で渡された冊子によれば「イエス、死刑を宣告される」場面。舞台上で演じられているかのようにつくられている。道行に参加した一同がその前で威儀を正す。そして、同行した神父さまの先唱で祈りが始まった。

 わたしはみんなより一歩下がって道行の群像を眺める。その材質が何かはわからないが、銅像によく使われる黄銅にしては赤みがやや強いか。金属ではないのかもしれない。中央にキリスト、まわりを兵士が囲んでいる。

 イエスが死刑を宣告された裁判のいきさつは、『聖書』の「ヨハネによる福音書」に書かれている。
 ローマ総督ピラトがユダヤ人たちに「見よ、これがあなたがたの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」(19章14-15節)と。「そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した」(16節)のだ。道行はこの場面から始まる。

 神父さまの先唱、それに続く一同。祈りの言葉が交互に響く。そして黙想。終わると、ゴツゴツした山道を次の留まで歩く。
 雨はほとんどやんでいる。天気が悪いせいか、わたしたち以外に歩いている人はいない。たまに何人か、足早に追い抜いていく人がいるだけだ。

 第2留は「イエス、十字架をになう」。ここで十字架が登場する。巨大だ。黄銅色の人物像に対し、十字架は濃いあずき色で、木というより鉄骨のように感じられた。いかにも重そう。イエスはそれをかつぐ。

▲第3留――イエス、初めて倒れる。

  ▲水栓はロザリオ    大聖堂の側壁にある。


 以下、13留までイエスと共に常に十字架が出てくる。十字架の道行という名前どおり、十字架は重要なモチーフなのだ。「はずかしめと処罰のしるしであった十字架は、救いと勝利をもたらすしるしとなりました」(冊子の解説)というが、そのとおりだと思う。とくに12留の磔刑場面などはその思いを強くする。

▲第12留――イエス、十字架上で息を引きとる。

  ▲水栓はロザリオ    大聖堂の側壁にある。


 また、冊子の解説に、イエス・キリストがこう言ったとある。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従いなさい」(ルカ9・23)

 自分の十字架を背負う――。だれもがそうやって生きているのだろう。その重荷をとりのぞくことはできないようだ。背負ったまま生きていくしかない……。

▲第9留――イエス、三度倒れる。

  ▲水栓はロザリオ    大聖堂の側壁にある。


 歩いては祈り、黙想する。そしてまた歩く。巡礼の本質はここにあるのかもしれない。歩くだけではだめ。祈り、黙想する。それが必要だ。そうすれば多くの気づきがある。

 歩き、祈っている間に天気は少しずつ回復し、傘がいらなくなった。四国のお遍路で巡った山道を思いだす。あのときは重いリュックをかついでいた。今日のような雨にあうと難儀したものだ。
 同じ雨の山道でも、カメラだけを持った身軽な道行はとても楽。あの重いリュックがあるとないでは、天国と地獄の差がある。

 リュックと同じように、目に見えない十字架も、下ろすことはできないだろうか。わたしにとって、背負った十字架は、とてつもなく重く感じるのだが……。

 5時、十字架の道行を終え、山を下りる。聖域を通って修道院に戻る途中、車いすの老夫婦に出合った。雨合羽をまとった奥さんが濡れないように、ご主人が合羽のすそをなおす。その様子がいかにもやさしそうで、こころがなごんだ。

▲道行を終えた帰り道、車いすの老夫婦を見かけた。


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