こころが気持ちよくゆるんでくる10月1日、午前8時16分、東御廻り(あがりうまーい))終了。う〜ん、よかった、よかった。 海に向かって大きなのびをして、さて、のんびりしてはいられない。バスの時間が迫っている。 急げ、急げ。バス停まで10分。間に合った。やってきた志喜屋行きの東陽バスに乗り込む。 さあ、これからは遊びの時間だ。 8時55分、終点の志喜屋バス停着。そこから2・8キロ(50分)歩くと浜辺の茶屋がある。 ネットや本で情報を得ていたとおり、浜茶は手作りの建物で、お世辞にも立派とはいいがたい。 錆が目立つ鉄筋でできたアーチ門をくぐり、階段を下りる。暗くて狭い入り口を通りぬけると、ぱっと明るくなった。 そこは、観音開きに大きく開いた窓の前、海に面して幅60センチほどのテーブルが店の端から端までつながり、客は海と対面して座るようになっているスペースだった。 ひとつの窓にふたつの椅子。カップル仕様だ。ほかには海と反対側の壁ぎわにテーブル席が2卓あるだけの小さな喫茶店だ。 先客は赤ちゃん連れの若い夫婦のみ。 彼らの隣の椅子に腰を下ろし、歩いてきてのどが渇いていたのでシークァーサージュースを頼む。 椅子に座ると、目の前の海は潮が引いていて岩場が顔を出していた。 打ち寄せる波もなく、湖のように静まりかえったおだやか海だ。ボーッと見ていると、なんだか現実を忘れてしまいそうな、ぼんやりとした気持ちになってくる。なんだろう、これは。 どこといって特徴のある店ではない。クーラーはないし、しゃれた飾りつけがあるわけでもない。 低く音楽がかかっているが、別にどうということはない。 意地悪く言えば、ないないづくしの喫茶店。目の前の海もごくありふれた風景だ。 にもかかわらずなぜか居心地がいい。こころが気持ちよくゆるんでくるのがわかる。 ここには、緊張とは無縁の時間が流れている。 店の下の砂浜には、よしず張りの粗末な休憩所があった。細長いテーブルと白い椅子が5・6脚置いてあるだけだ。 そのひとつに座ってみる。 テーブルといっても厚手の板が一枚渡してあるだけの簡単なものだ。そこに頬肘をついて海を見る。 目の前の砂浜をヤドカリがちょこまか歩いている。 波の音は聞こえない。ときおり風が頬をなでる。 何を考えるでもなく、ただぼんやりと目の前の風景を眺める。 安らぐ。何がこんな気持ちにさせるのだろう。 眠いわけではないのに、寝りに落ちる寸前のようなぼんやりした頭で考えるともなく考えた。 でも、気持ちがいい理由なんてわかるわけがない。 いいんじゃない、気持ちよければそれで。 浜茶に小一時間いて、次は山茶に行ってみた。浜茶から歩いてすぐの山手にある。 ここは本格的な建物だった。手作りの浜茶が成功してお金がたまったのでこれを建てた、という感じがするのはわたしだけかな。 とまれ、ここでお昼にした。雰囲気はいい。一歩引いて山から海を眺めるという趣向も成功している。海茶から山茶へはしごするのもいい。 店内はクーラーがきいているので、海が見える窓は閉まっている。ついたてで仕切られた席は畳敷き。テーブル席もあるが、やはり海一望の眺めを見ながらの食事がベストだろう。 わたしのほかにお客は3人連れの若い女性グループだけだ。手足を伸ばし、つい寝ころんでしまいそう。 ゆっくりとお昼を楽しみ、あがりうまーいで疲れた体を休める。う〜ん、至福の時間だ。 できることなら、こんな場所で、毎日をおだやかにゆったりと過ごしたい。 そうすれば、がんなどという厄介な病気とも無縁の暮らしができそうな気がする。 浜茶の裏山にガジュマルの大木が緑の葉を茂らせていた。昼下がりの強烈な太陽をいっぱいに受け、生命力に満ちあふれて生きている。これが自然のパワーだ。わたしも――そうありたい。 |
みきかノート/がんになってからのこと Last modified 2011/03/17 | ↑HOME ↑癒しの旅 |